登場する人物のほとんどが17歳という、ある時期流行語にもなった年齢設定がなされています。 私自身はすでにその倍以上の年齢を重ねてしまったので、17歳の実感を描くことは非常に難しいことです。 「あり得なくない?(語尾上げ)」などとしゃべっている人種は、私にとってとても遠い存在でしたが、私なりに17歳の少年少女が初めて死に直面するときの有り様を真摯に描こうと決意しました。

 17歳の言語は未知のものでしたが、「死」については彼らよりよく知っているつもりでしたので、映像の中でいかに彼らに死を実感させるかがテーマでした。 結果的に登場人物達は死に向かっていきますが、「死ぬこと」=「死の表現」にはなりません。 死をリアルに浮かび上がらせるには、逆に「生きること」、さらに「よりよく生きようとすること」を描写することが重要です。 生の表現が、結果として死の表現にリンクします。生と死は表裏一体なのです。

 17歳にとって「生きること」はとても曖昧なものです。 私のように人生も半ばを迎えれば、「生きること」は切実です。 ご飯を食べて、働いて、寝ることすべて生きるために必要なことであることに薄々勘づいています。 だから、中年以上の男性や女性は、そうした日常を描くだけで「生きること」を観客に感じさせることができます。 ところが17歳では、日常は生にも死にもまったく繋がっていません。
 この作品で17歳たちは、実験という名目によって記憶をデリートされた状態で日常を過ごしています。 記憶のない不安定な状態で、彼らは本能的に生きることを模索し始めます。 また、記憶を模索する中で、自分たちが欠陥を抱えた人間であることを思い出し、世界は自分たちが生きることを望んでいないことに気がつきます。

 生きるべきではないのに生まれてきた……そんな矛盾した世界の中で、それでも彼らは生きようとします。 作中、登場人物が何度か「うちに帰ろう」と言いますが、この言葉が17歳にとってもっとも「生きること」に近いように感じました。 「うちに帰りたい」という言葉に嘘は感じられないからです。 最終的に彼らはうちに帰ることができませんが、欠陥を克服して生きたいと願うその姿に罪(つみ)はないと考えています。

 欠陥は誰しも持っているものです。大事なのは自分の欠陥に対する態度です。その態度によって人生は良くもなり悪くもなります。
 この作品が「17歳のための童話」としてより多くの方に観ていただけることを願っています。

(監督 / 小沼雄一)